情報プラットフォーム 2010年1月号 No.268

ぷらっとウォーク

古新聞紙の中の早明浦ダム

旧家のお蔵の整理に際して、不要な骨董品などを沢山頂いてきた。その中に皿鉢の詰まった2箱と取り皿の1箱があった。皿鉢や小皿はそれとして、興味を引いたのは緩衝用に間に挟んである40年程前の新聞紙である。その中の一枚の高知新聞に目が行った。日付は昭和44年10月14日(1969年)である。「徐々に偉容現す早明浦ダム」の見出しとともに、不夜城のように浮き出たダム本体工事現場の大きな写真がある。「完成、二年後に迫る」、「嶺北の”あす”をひらく」の小見出も付いている。早明浦ダム特集号である。

四県知事の談話があり、それぞれのタイトルは、「早明浦ダムに期待する」が武市恭信徳島県知事、「和こそ限りなき成長の力」が金子正則香川県知事、「四国の国作りは四県の大同団結で」が久松定武愛媛県知事、そして「水没地域住民の理解と協力に感謝」が溝渕増巳高知県知事である。徳島県48%、香川県29%、愛媛県19%、高知県4%の利水配分率を発言内容に重ね、そして、洪水調整に主眼がある徳島県、上水道としての利水が必要な香川県と考えれば、それぞれに深い意味があることが分かる。

ダム右岸の「四国のいのち」の記念碑は、当初は「四国はひとつ」と刻む予定だったと聞く。しかし、溝渕高知県知事は「水は一つになったが、他のことはまだ一つになっていない」として予定を変更したというエピソードが残っている。

2005年の夏はダム貯水率が0%にまで枯渇し、全国的に毎日のニュースや新聞で水不足が報道された。水底から現れた大川村役場の映像が大きなインパクトを与えた。調べてみると、この鉄筋3階建ての庁舎は昭和37年8月(1962年)に出来上がったものであることを知った。当時の大川村はダム建設に猛反対していた。固定資産税は堰堤の所在地である本山町と土佐町に配分され、大川村には入らない。メリットが全くない大川村では、行政・住民が一体となって反対運動を繰り広げた。その意思表示のために、あえて水没する場所に耐久性のある庁舎を建設したのである。渇水や水不足の象徴としか考えて居なかったことは申し訳ないことだったのである。また、これを知らない県民も多くなっただろう。

難航した補償交渉は1973年(昭和48年)に概ね妥結し、1967年の着工から8年の歳月を掛けて、1975年に完成した。総事業費は約332億4,000万円であった。

土佐町と本山町にある堰堤から、ダム湖の途中に掛かる吊り橋を通る一周の湖畔の四季は美しい。春には2000本の桜回廊、初夏にはあじさい、秋には紅葉と四季折々の美しさを湖面に映している。日本で最も小さな村、大川村では謝肉祭などのイベント、はちきん地鶏、杉材の木製家具などの地場産品で活性化を図り、環境保全にも取り組んでいる。

利根川上流、群馬県の八ッ場(やんば)ダム、球磨川上流、熊本県の川辺川ダムの建設中止が話題となるときに、この古新聞紙に目がとまったのは偶然ではないように思える。11月中旬の高知新聞に「ダムは反対だけれど」と大川村に住む84歳の女性の投書が載った。八ッ場ダムについて「半世紀の間の中で翻弄され、そしてさだめし涙をのんで承諾に踏み切ったであろう水没者の方々。・・・・・それを突然中止とは。」と当時の大川村の苦悩を思い出しながらの投書である。

鳩山総理大臣の「コンクリートより人」の理念がどのように決着を付けるのかを見守りたい。「今を大きく変えないこと」が人類と環境にとって最も大切なことではあるのだが。

ご感想、ご意見、耳寄りな情報をお聞かせ下さい。鈴木朝夫<s-tomoo@diary.ocn.ne.jp>