情報プラットフォーム 2010年12月号 No.279

ぷらっとウォーク

塩の道は丹生(韮生)の道では?

文代峠から赤岡までの塩の道の下半分を「塩を運んだ後、帰り荷がない筈がない。何だろうか」と思いながら歩いた。大栃の塩峰公士方(しおがみねくじかた)神社から文代峠までの上半分も別な機会に歩いているので、塩の道を全部歩いたことになる。塩の道は急流の物部川に沿って下るのではなく、それと平行する支流の谷(庄谷相)に入り、文代峠を経て、香宗川や山北川沿いを選びながら、野市町・香我美町を通り、赤岡へと下る道である。全長の合計は30kmになる。朝、赤岡を出発し、午後には大栃に到着することになる。馬の背に乗せての運搬であり、随所に馬頭観音が祭られている。

統計によれば、現在の物流のトラック輸送の積載率は50%前後である。帰り荷がないのと同じである。エネルギーと時間の無駄使いである。帰り荷は「木炭ですよ」、「雁皮ではないですか」、「樟脳でしょう」などとアドバイスを頂くが、どれも納得がいかない。

そんな時に、赤岡の絵金蔵で出会ったあの芝居絵の鮮烈な赤の色(朱・丹)を思い出していた。あの色が出せる赤色顔料は鉄の酸化物(ベンガラ)や鉛の酸化物(鉛丹)ではない。水銀の硫化物、辰砂ではないだろうかと思った。「昔、物部川流域に水銀鉱山があったのでは?」と会う人ごとに聞いた。遂に有力な情報が寄せられた。白髪山を源流とし、西南に流れ下る物部川の上流では、北寄りの上韮生川、南寄りの槇山川が大栃でY字で合流する。鉱山があった場所は上韮生川の右岸に北から合流する安野尾川の上流とのことである。「鉱山跡をご案内しましょう」と言って下さるが、強行軍ではと少し不安である。

徳島に向かう国道195号線は、物部川中流から槇山川沿いにほぼ直線であり、南側の四万十帯と北側の秩父帯を分ける仏像構造線と一致している。 秩父帯と北の三波川帯を分けるのは御荷鉾構造線、三波川帯の北は吉野川や紀ノ川に一致する中央構造線である。水銀鉱山の分布を見ると、日吉鉱山(愛媛県鬼北町)、穴内鉱山(高知県香美市)、韮生鉱山(高知県香美市物部)、由岐(水井)鉱山(徳島県阿南市)、大和鉱山(奈良県宇陀市)、丹生鉱山(三重県多気町)と中央構造線に平行であり、秩父帯に乗っていることが分かる。さらに、これに併せて「丹生」、「丹生川」、「丹生神社」のような名称が分布している。なお、「丹生川」の代表は、空海にゆかりの高野山の北を流れる紀ノ川の支流である。

水銀の硫化物(HgS)、辰砂は朱色であり、絵金の色である。辰朱、丹砂とも呼ばれている。これを空気中で400~500℃に加熱すると、硫黄と酸素が結合し、水銀が蒸気となって分離する。水銀は他の金属を溶かしてアマルガム(液体の合金)を作るが、加熱すれば水銀だけが蒸発して、金属が固体として残る。この性質を利用して金や銀を精製することが出来るし、これを塗布して金メッキを施すことも出来る。奈良の大仏の鋳造に使われた銅は500tであり、メッキとして必要な金は440kg、水銀は2.5tと記されている。

空海は、錫杖で湧き水を呼び込み、独鈷で岩を砕いていた様に思える。旅の目的の一つは地勢・地質の調査にあり、弘法大師は山師だったと言っても良い程の地質学の知識を持っていたと思われる。この物部の道は、塩の道と言うよりも、黄金を越える価値を運ぶ「辰砂の道」であり、むしろ「塩」・「塩魚」・ 「干物」が帰り荷だった可能性が高いことになる。そして、「韮生(にろう)」は「丹生(にゅう)」の転訛だったのかも知れない。積出し港と思われる「赤岡」の地名もそれらしく感じられるから不思議である。

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